LOGINその夜、リリアーナは侯爵邸の客間で、ほとんど眠れなかった。 眠れない理由はいくつもあった。 襲撃のあとで身体がまだ興奮を引きずっていること。 王都へ戻る途中の馬車で、何度も短く揺れた時の衝撃がまだ骨の奥に残っていること。 知らぬ間に握りしめていた指先が、今も少し熱を持っていること。 そして何より、あの人も前世の記憶を持っていると、もう疑いでは済まないところまで知ってしまったこと。 暖炉の火は小さく入っていた。侯爵邸の客間らしく、布も寝台も申し分なく整えられている。窓には厚いカーテンが引かれ、夜気はほとんど遮られている。女医が置いていった薬湯の匂いがまだ薄く残っていて、煎じた草の青さと蜂蜜の甘さが混ざっていた。 完璧だった。 部屋は何も悪くない。 むしろ心身を休めるにはこれ以上ないほど整っている。 なのに、リリアーナの胸の内だけが、ぐちゃぐちゃに乱れていた。 同じ夢を見る人。 さっき、自分はそう思った。 同じ悪夢を知っている人。 自分が死ぬところを見て、その後も生き残ってしまった人。 でもその事実は、慰めにはならない。 少なくとも今は、少しも。 彼も知っていた。 前世の自分の孤独を。 熱を出した朝も、夜会のあとも、義母に削られていたことも、実家の打算も、たぶん全部。 知っていて、沈黙した。 そして、自分が死んだあとで初めて、やり直したいと思っている。 胸の奥へ浮かぶのは、悲しみだけではなかった。 怒りだ。 どうしようもなく、濁った怒り。 知っていたなら、なぜ。 見ていたなら、なぜ。 死ぬまで、何も言わなかったの。 寝台の上で目を閉じても、眠気はまるでこなかった。 あの沈黙。 あの目。 「毎日、そう思っていた」と掠れた声で言った時の、ひどく静かな顔。 怒鳴りたい。 泣きたくない。 逃げたい。 でも、逃げたらたぶんもう、一生この問いを抱えたままになる。 知りたいのだと、認めるしかなかった。 どうしてあの時、言わなかったのか。 何をどこまで知っていて、それでも何もしなかったのか。 自分が死んだあと、彼は何を見たのか。 そこまで考えた時、扉の外で気配がした。 遅い時間だ。 使用人なら、もっとはっきりノックをする。 エマなら遠慮のある間
リリアーナは返事ができなかった。 毎日。 その言葉が胸へ落ちた瞬間、痛みと怒りと、どうしようもない切なさが一度に押し寄せる。 毎日。 それほどまでに、あの人もあの十年を見ていたのか。 失くした夜を。 自分が死んだあとの世界を。 そして今、やり直そうとしているのか。 怒りたかった。 今さら、と思いたかった。 実際、そう思っている。 でも、その表情を見てしまった以上、完全に切り捨てるのは難しかった。 セドリックは続けた。「……もっと早く言うべきことがあった」 「ええ」 「もっと、別の触れ方があった」 「ええ」 「分かっている」 その「分かっている」が、前よりずっと重かった。 言葉ではなく、見たものの重さとして。「でも」 リリアーナはそこでようやく声を出した。 喉の奥が少し熱い。 泣きたいわけではない。 ただ、何かが胸の内側を強く擦っている。「やり直したいと思っても」 「……」 「失くしたものが戻るわけじゃない」 セドリックは黙った。 否定しない。 できないのだろう。 そうなのだ。 前世の自分は死んだ。 あの十年の寂しさも、冷たさも、今の自分がどれだけ言葉にできても、なかったことにはならない。 やり直しは、たぶん始められる。 でも、“取り戻し”とは違う。 その線を、彼も今は分かっているのだと、顔が語っていた。 女医が、薬箱の蓋を閉める音がした。 その小さな音で、張りつめた空気が少しだけ動く。「お嬢様、今夜はあまりお話をなさらないほうが」 穏やかな声でそう言ってくれたのは、配慮だろう。 この場の会話が、ただの体調確認ではないことくらい、年嵩の女医には伝わっているはずだ。 それでも、深入りせず、退く余地だけを与える。 その賢さがありがたい。 エマが主人の肩へ毛布をかける。 やわらかな重みが落ちてきて、ようやく身体の震えに気づいた。 怖かったのだ。 襲撃も。 記憶を共有していると知ったことも。 その両方が。 セドリックは部屋の端から動かなかった。 だが、その視線の質は少し変わっていた。 さっきまでの鋭い警戒より、もっと深いところへ沈んでいる。 問いに答えてしまった人間の、隠し場所を失った目だ。 リリアーナは毛
女医は手早かった。 傷を洗い、消毒し、薄い薬を塗る。 薬草を煎じたような青い匂いが立ちのぼる。 冷たい布が皮膚へ当たり、次に軟膏のぬるりとした感触が重なる。 動きに無駄がない。 痛みも最小限だ。 セドリックは部屋の端に立っていた。 近すぎず、遠すぎず。 こちらの手当てを邪魔しない程度の距離。 けれど、一歩も外へは出ない。 視線も逸らさない。 それが、ひどく気になった。 前世なら、こういう場で彼は「必要な処置を」と一言だけ残して、たぶん執務へ戻っただろう。あるいは外で報告を受けていたはずだ。 だが今は違う。 立ったまま、黙って、こちらの手元を見ている。 まるで一瞬でも目を離せば、何かが奪われるとでも思っているみたいに。 女医が肘の傷へ布を当てながら言った。「今日はお静かに。衝撃で身体が強張っておりますから、夜になってから熱が出ることもございます」 「熱は」 「出たらすぐお知らせください。無理に眠ろうとなさらず、温かいものを少しずつ」 「……はい」 返事をしながら、リリアーナは視線を上げた。 部屋の端のセドリックが、熱、という言葉にわずかに目を動かしたのが分かった。 まただ。 そういう細部だけ、昔から拾っていたのだろうか。 それとも、今だけなのか。 どちらにせよ、その反応を見るたび胸の奥が軋む。 女医が包帯の端を整える。 エマが水差しを取り、主人のための薄い薬湯を用意する。 部屋の中には、乾いた布の匂いと煎じた草の匂いが漂う。 静かだ。 静かすぎて、外の風が窓を撫でる音まで聞こえそうなほど。 この静けさの中で、どうしても気になっていることが、胸の中に重く残っていた。 聞きたい。 でも、直接は聞けない。 さっき馬車の中で「あなたも記憶があるんじゃないの」と言った。彼は否定しなかった。だが、明確に認めもしなかった。 今ここで、もう一度「あるのね」と詰めれば、きっと答えは出るのだろう。 でも、それをするのが、なぜか怖い。 認められた瞬間、すべてが戻れなくなる気がした。 だからリリアーナは、少し遠回しな問いを選んだ。 女医が手当てを終え、少し離れて薬箱を整え始めた頃だった。エマは暖炉のそばで湯を温めている。部屋の中の気配が一瞬、ゆるむ。その隙間に、リリ
結局、その日は伯爵家へすぐには戻れなかった。 襲撃のあった場所から王都までは、通常ならそう遠くない。だが、道を塞いでいた荷車の処理や、怪我をした護衛の搬送、周囲へまだ敵が潜んでいないかの確認に時間がかかった。何より、セドリックが「このまま伯爵家へ返すわけにはいかない」と低く言い切った時、誰もそれを真正面からは覆せなかった。 伯爵家の馬車は側面を損じていたし、護衛の一人は肩を負傷していた。エマは青ざめたまま主人の傍を離れず、御者もまだ動揺を引きずっている。そういう状況を見せられれば、たとえ腹が立っていても、すぐに「結構です」とは言えなかった。 だからリリアーナは、いったんヴァレンティア侯爵邸へ運び込まれることになった。 それが決まった瞬間、胸の奥に別の種類の冷えが走った。 また、ここへ来るの。 前世の記憶が、場所と結びついているからだろう。侯爵邸の門をくぐる前から、呼吸がほんの少し浅くなる。石造りの外壁、整いすぎた庭、黒鉄の門、どこもかしこも昔と同じだ。馬車の窓から見える景色だけで、心臓が身体の奥へ少し沈む。 だが今回は、前世と違っていた。 馬車が門をくぐるより早く、玄関前には既に人が出ていた。ローレンスだけではない。侯爵家付きの老医師と、女医に近い役割を担う年嵩の侍女、それに下働きの娘が二人。湯の入った盆、包帯、薬箱、毛布。まるで最初から「誰かが傷ついて戻る」と分かっていたかのような支度の速さに、リリアーナはまた胸の奥をざわつかせた。 偶然とは思えない。 思いたくても、もう無理だ。 自分だけが前世を抱えているのではない。 あの男も、知っている。 そう気づいたあとの世界は、同じ景色でも少し違って見えた。侯爵邸の玄関ホールに満ちる蜜蝋の匂いも、磨き抜かれた床へ落ちる夕方の白い光も、すべてが“あの人もこれを知っている”という前提で迫ってくる。「こちらへ」 ローレンスが静かに促す。 セドリックはリリアーナのすぐ隣を歩いていた。触れてはいない。だが、もし足元が揺れれば即座に支えられる位置を一歩も外さない。その距離感が、今は前にも増してはっきりと意味を持つ。 彼は知っている。 前世の終わりに、自分がどこで、どう倒れたのか。 どんな血の匂いがして、どんなふうに冷えていったのか。 そして、自分の腕の中から失われたのが何だったのか
黒の上着には土と泥がはね、袖口には薄く何かが擦れた跡がある。呼吸は乱れていない。蒼灰色の瞳だけが異様に鋭く、そしてこちらを捉えた瞬間に、張りつめていた何かが一段落ちたのが分かった。「怪我は」 「……ない、わ」 「立てるか」 「ええ」 立てる、の言葉と同時に彼の手が伸びる。 強い。 迷いがない。 だが乱暴ではない。 その手に引き上げられた瞬間、馬車の外の景色が見えた。 荷車は横倒しになり、伯爵家の護衛の一人が肩を押さえてうずくまっている。地面には二人の男が伏せていた。顔は布で覆われ、服もありふれた荷運び人のものだ。だが腰の位置には短剣。単なる賊ではない。訓練を受けた動きだったと、一目で分かる。 そしてもう一つ。 荷車の下から引きずり出された男の手首に、薄い革紐が巻かれている。 その結び方に、リリアーナは見覚えがあった。 前世の終わり近く、一度だけ見た。 侯爵家の裏で動く連中が好んで使う、識別用の癖のある結び方。 偶然でなければ、あまりに嫌な符合だった。「移動する」 セドリックが短く言う。「ここに留まるな」 「待って」 「何だ」 「……どうして、そこまで分かったの」 問いは、ほとんど反射だった。 彼は一瞬だけ、こちらを見た。 その目に走った揺れは短かったが、見逃せない。「何のことだ」 「右に弓がいるって」 「……」 「荷車の下に二人いるって」 「……」 「まるで、最初から知っていたみたいだった」 エマがまだ馬車の中で震えている。 護衛たちは周囲を固めている。 こんな場で問い詰めるべきではないと頭では分かる。 だが、今の今まで冷えていた血が、別の意味でざわめいて止まらない。 セドリックは答えなかった。 答えないまま、リリアーナの腕を掴む手だけを少し強めた。「後で話す」 「今よ」 「今は違う」 その低さに、前世の彼を思い出しかける。 だが、違う。 昔なら、そこで終わりだった。 今の彼は、終わらせるために言っていない。 ただ、本当に今は場が違うのだと押し切ろうとしている。 それが分かることすら、余計に腹立たしい。「侯爵様!」 伯爵家の護衛が呼ぶ。 道の先で、別の馬の音が近づいてきていた。 味方か、遅れてきた追手か。判別する暇はない。 セ
御者台のほうで、不意に馬のいななきが聞こえた。 甲高く、短く、驚いた時の声だった。 続いて馬車がわずかに斜めへ揺れる。車輪が石を踏み外したような大きな揺れではない。けれど、普通の道の段差ではない種類の、急な揺れ。 リリアーナは咄嗟に窓の外を見た。 道の脇に、荷車が一台、妙な角度で止まっている。 本来ならすれ違う側へ寄るべきなのに、まるで道を塞ぐような位置だ。車輪の一つが外れたようにも見えたが、その不自然さに気づいたのは一瞬遅かった。「止まるな!」 外から、護衛の一人の怒声。 その直後、何か硬いものが馬車の側面へぶつかった。 鈍い音。 板が軋む。 馬が再び大きく鳴き、御者が手綱を引く気配。 エマが短く息を呑んだ。「お嬢様!」 次の瞬間、馬車が止まった。 止まらざるをえなかったのだと、すぐに分かった。前方だけではない。窓の向こう、反対側にも人影が見えたからだ。荷運び人のような粗末な外套。だがその立ち方が違う。腰が低く、間合いを詰める準備をしている。偶然道を塞いだ者ではない。 襲撃。 その言葉が、遅れて脳裏に上がる。 前世では、こんなに早くではなかった。 心臓がどくりと打つ。 息が浅くなる。 体は一瞬、凍る。 けれど次の一拍で、前世の記憶が逆に身体を動かした。 怖い、と思う暇より先に、まず何をすべきかが分かってしまう。「エマ、床に伏せて」 「でも」 「早く!」 エマをほとんど押すようにして、馬車の座席の下へ身を低くさせる。自分もスカートの裾を乱しながら床へ膝をついた。窓から見える位置に頭を上げていてはいけない。これだけは、もう身に染みている。 外ではすでに金属のぶつかる音がした。 短剣か、護身用の剣か。 悲鳴ではなく、男たちの低い怒声。 そして、ひときわ異質な音。 空気を裂くような、高い風切り音。 リリアーナの背中が総毛立つ。 弓だ。 しかも狙いは馬車そのものではない。護衛を散らすための牽制。「前より、早い……」 思わず口から零れた。 エマが「お嬢様?」と震え声で呼ぶが、答えられない。 前世ではもっと後だった。 しかも、やり口が少し違う。 あの時はもっと粗く、もっと混乱の中へ押し込むような襲撃だった。 今のこれは、手際がいい。 荷車で道を塞ぎ、射手
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分







